風林火山

 南北朝時代の南朝方の鎮守大将軍・北畠顕家や、甲斐の戦国大名・武田信玄の旗指物(軍旗)に記された「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」(疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵(おか)し掠(かす)めること火の如く、動かざること山の如し)の通称。

 日本で最初にこの旗を用いた武将は北畠顕家であるが、江戸時代以降の軍記物などで武田軍をイメージするものとして盛んに取り上げられる。 

武田信玄

 甲府駅南口の建立されています 「武田信玄公像」 です。

 武田信玄の旗と言えば「風林火山」。武田信玄の旗印『風林火山』は、その『孫子 軍争篇第七』の一節から取ったもので

 故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山、難知如陰、動如雷震、掠郷分衆、廓地分利、懸権而動、先知迂直之計者勝、此軍争之法也。

[原文]

     其疾如 疾(はや)きこと風の如く
     其徐如 其の徐(しずか)なること林の如く
     侵掠如 侵掠すること火の如く
     不動如 動かざること山の如く
     難知如陰 知り難きこと陰の如く
     動如雷震 動くこと雷の震うが如く
     掠郷分衆 郷を掠(かす)むるには衆を分かち
     廓地分利 地を廓(ひろ)むるには利を分かち
     懸権而動 権を懸けて而して動く。
     先知迂直之計者勝 迂直の計を先知する者は勝つ。
     此軍争之法也 これ軍争の法なり。

龍と虎 

武田信玄(左)・上杉謙信(右)一騎討像
長野市
八幡原史跡公園

 また、『謀攻篇』では
  百戰百勝、非善之善者也、不戰而屈人之兵、善之善者也。 

 百戦百勝は善の善なるものに非ざるなり、戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり。 
  知彼知己、百戰不殆。 
 彼(敵)を知り己を知れば百戦殆うからず。 

 など軍事における重要な教えが書かれており、多くの人々に影響を与えました。

 元々、戦国時代ではずば抜けた才能・頭脳を持った武田信玄は、これらの教えを愛用し、優秀な参謀や家臣達の意見を重用して実践したからこそ、あのように強かったのでしょう。
旗 披露

  戦国最強軍団と言われる武田軍の旗指し。      信玄公の甲冑

 風林火山の陣旗の始祖は武田信玄ではない。実際は風林火山の旗印は信玄よりも200年早く、南北朝時代の若き公卿武将で鎮守府将軍であった北畠顕家が、京を制圧した足利尊氏を打倒するために陸奥多賀国府(現在の宮城県多賀城市)で兵を挙げた時から使用していた陣旗であった。

風林火山博

2007年甲府で開催されています甲斐の国 『風林火山博』 会場入り口。

 北畠顕家は平安時代後期から鎌倉時代後期まで活躍した村上源氏を始祖としており、学識も深く、孫子に深く傾倒していたと思われる。北畠顕家はこの風林火山の旗印を立てて奮戦し、一度は足利尊氏をあわや自害のところまで追い込んだのである。 

風林火山館

山梨県北杜市の「風林火山館」

 北畠顕家は南北朝を経て戦国期には、「太平記」や「梅松論」、父の北畠親房が記した「神皇正統記」などの書物によって名将として親しまれ、したがって信玄も北畠顕家の風林火山の陣旗を参考に陣旗を作ったと考えられるのである。また、信玄は信仰する諏訪明神の加護を信じて「南無諏方南宮法性上下大明神(なむすわなんぐうほっしょうかみしもだいみょうじん)」を本陣旗としている。 

風林火山館2

入り口(大手門)

「風林火山館」はNHK大河ドラマ「風林火山」内で、武田晴信が住んでいる「躑躅ヶ崎館」を再現したものです。

 戦国時代の城は織田信長が本格的な城郭を築城する前は、このような館が城なのである。
 信玄の場合は名言があって家臣(人)が城であり、石垣であり、堀である。と、家臣団結こそが何にも勝る守りの要と考えていたようである。
 それこそが当時、最強を誇る武田軍団の強さの1つなのだろう。

主殿 主殿2

       主殿              門を進むと主殿
 風林火山館は2007年のNHK大河ドラマ「風林火山」のロケ現場となったところです。館の横の長さは本物は約218メートルですが、ここの風林火山館では約70メートルなのだそうです。

 躑躅ヶ崎館は武田家の最後の3代が住んだ館であり同時に城でした。城といっても当時は天守閣や石垣などはありませんでした。この館が建設された時期から約60年後に織田信長が安土城を作りそれが天守閣の第1号なのだそうです。
櫓 大手門

       堀と隅櫓              主殿からの大手門

 躑躅ヶ崎館が建設された時は石垣を作る技術は無く、当時は土塁しかありませんでした。大手門の両脇にある中途半端な石垣は飾りであり、武田信虎が自分の強さを周辺の豪族達に示し、恐怖心や威圧感を与えるためのだったのだそうです。躑躅ヶ崎の館は城とはいっても防御力は低く、いざという時のために館の裏のほうに要害城がありました。何かあったら要害城に逃げ込む作戦です。

   吉川    撮影

  主殿前で吉川晃司さん(織田信長)と  風林火山館の中での撮影風景
  笹野高史さんの演技(羽柴秀吉)

 NHK大河ドラマ「天地人」ロケ風景 撮影日:平成20年8月19日

 北杜市風林火山館で撮影されていた、NHK大河ドラマ「風林火山」は平成19年12月16日に最終回をむかえ、高視聴率のうちに放送を終了しました。(北杜市ホームページより)

 大手門を入ると広場になっていますが実際の館の場合はここに3千人くらい集まることができたのだそうですが、ここではせいぜい500~600人程度だそうです。

広場 隅

     大手門からの冠木門                隅櫓

 主殿は当時は総理官邸のようなもので甲斐の国を象徴したものであり、設計図はありませんでしたが重田氏が諏訪大社をイメージしてデザインしたとのことでした。

サイイン サイイン2

山本勘助役 内野聖陽さん 直筆サイン   長尾景虎(のち上杉謙信)役 Gackt さん 
 

展示

地下に 武田の時代のなぜ? なに! 展が展示されたもの

人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり(どれだけ城を堅固にしても、人の心が離れてしまったら世を治めることはできない。情けは人をつなぎとめ、結果として国を栄えさせるが、仇を増やせば国は滅びる)」

 この言の通り、信玄はその生涯の内一度も甲斐国内に新たな城を普請せず、堀一重の躑躅ヶ崎館に住んだ。ただし、後背には詰めの城である要害山(積翠寺)城があり典型的な戦国武将の山城ともいえる。 

入道

『川中島百勇将戦之内』「明将 武田晴信入道信玄」

 信玄は上杉謙信を上杉姓で呼ばなかったが、これは甲斐守護の武田家と越後守護代の長尾家の格式の差による。長尾家が関東管領として上杉姓となると、格式が逆転したため、面白くなかった信玄は、最期まで長尾姓のままで呼び続けたという。

およそ軍勝五分をもって上となし、七分をもって中となし、十分をもって下と為す。その故は五分は励を生じ七分は怠を生じ十分は驕を生じるが故。たとへ戦に十分の勝ちを得るとも、驕を生じれば次には必ず敗るるものなり。すべて戦に限らず世の中の事この心掛け肝要なり

勝者に驕りが生じることを戒めた言葉。

(以上はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、北杜市観光協会などホームページより)

信州・風林火山の舞台を訪ねて http://furin-kazan.jp/

北杜市観光協会ホームページの風林火山特集 http://www.hokuto-kanko.jp/furinkazan/

信州タングラム・風林火山ゆかりの地をめぐる旅 http://www.tangram.jp/furinkazan/index.html

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