平家納経

平家納経(京都国立博物館蔵)

 平家納経が、厳島神社に奉納されたのは長寛二年(1164)九月のことである。この動機については、「従二位行権中納言兼皇太后権大夫」の肩書をもつ平清盛納入の願文が詳しく伝えている。厳島大明神は、古来景勝の霊地に祀られ、霊験は顕著である。清盛は、この神を欽仰し利生をうることによって、久しく家門の福縁をたもち、子弟の栄達を実現した。今生の望みはかなえられ、来世の善報も疑いない。厳島神社は観世音菩薩の化現とされる。在家の身であるが、ここに報賽を思いたち、妙法蓮華経一部二十八品、無量義経、観普賢経、阿弥陀経、般若心経、各一巻を書写し、金銅箱におさめて宝殿に安置することにした。

 

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 今年1月から放映のNHK大河ドラマ「平清盛」を記念して、東京墨田区の江戸東京博物館で、平清盛ゆかりの厳島神社の至宝を公開する特別展が、この2月5日まで開催されました。その中で、平安時代末期の1164年に平清盛が広島の厳島神社に奉納した「平家納経」(国宝)の一部が公開展示されました。『法華経』は当時、上層階級を中心に篤く信奉されていました。『法華経』は、それ以前の仏教が伝来された当初から、仏教の中心的な経典として日本仏教の土台を築き、平安時代以降も盛んに信仰され、その流れが今日にまで及んでいるといえます。なぜ、これほど『法華経』が篤く信仰され、また、なぜ『法華経』は今日まで日本人を魅了してきたのでしょうか。
 それを知る手かがりとして、「平家納経」は多くの示唆を与えてくれます。とりわけ、平清盛による「願文」から、当時の信仰のようすがわかるように思います。  (環境イーハトーブより)

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「平家納経」は三十三巻から成り、その内訳は、法華経一部二十八品(巻)、無量義経・観普賢経・阿弥陀経・般若心経各一巻の三十二巻を書写したものと、

それに平清盛が納経に当ってしたためた願文<がんもん>一巻を加えた三十三巻です。

 平安時代、法華経信仰による写経が盛んになり、法華経二十八品に開経の無量義経と結経の観普賢経を加えた三十品を各人が一巻づつ写経する「一品経」が流行した。経の表紙や見返し、料紙に豪華な装飾がなされた多々ある装飾経の中で、平家納経の絢爛・耽美さに匹敵するものは無い。

 平家納経では経文名を記した題箋に鍍金(ときん)した金銅を、軸には水晶を使い、両端に精緻な細工を施した金銀金銅の透かし彫り金具をつけている。

 料紙には雁皮紙を使用し、表裏に金銀の箔や砂子を撒き、金泥・銀泥、或いは岩絵具や型押しで地紋を浮き出たせたている。更にその上に金銀泥、岩絵具で絵や模様を描き、文字は墨・緑青・金泥を使用している。

 経巻は「金銀荘雲竜文銅製経箱」と呼ばれる基台に乗せられた三段重箱形式の銅製経箱に納められた。蓋表には五輪塔と双竜を組み合わせた意匠、側面は雲竜文意匠の飾り金具が使用されている。この意匠は「提婆品」に説かれた竜女成仏の経意を表現している。
 1602年(慶長2年)安芸守となった福島政則が経巻の修復を行った際に蔦蒔絵の経櫃を寄進したと伝えられる。

fghdr   法華経を書写した装飾経が最も盛んに作られたのは藤原道長の時代である。その主導者となったのは貴族や後宮の女房達で、時代のもたらす無常観をいやし、救いを求める気持ちから、法華経二十八品を各自が一品ずつ受け持って書写した。

 平家納経に見られるように、写経の願主・施主は料紙に色紙や染紙を用いて金銀箔をちらし、金字・緑青で経文を書いたり、見返しには金銀泥で美しい絵を書き、水晶の軸を使って仕上げ、更に見事な工芸技術を施した経箱や経筒にそれらを納めて奉納した。

 経の見返し絵は経文の内容を表したものが多く「経意絵(きょういえ)」と呼ばれた。これらの絵には大和絵・女絵・唐絵の三系統があり、王朝絵巻から抜け出したようなあでやかな女性の姿が目を引く。

 

 華やかな見返し絵の他に、経意を象徴的な手法で表現した優れた絵もある。「安楽行品」の表紙、「法師功徳品」の見返しにこうした絵を見出せる。

 装飾経だけでなく仁平2年(1152年)四天王寺詣での高陽院が奉納したと伝えられる(他説もある)「扇面法華経冊子」にもきらびやかな貴族女性図が多く、特に扇面法華経の絵に登場する女性達は、ほおずえをついていたり、十二単が着崩れしていたり、立ち話をしていたり、日常のリアルな動作そのままが描かれていて興味深い。

 装飾経に描かれた美しい女性像の数々、そして一品経を書いた貴族の女性達・・・平安時代の女性が法華経の布教に貢献したのは、法華経の「万人成仏」「女人成仏」の思想にある。

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平家納経・厳王品見返し

平家納経・序品見返し

経文から光がさし、蓮の花びらが散る

経文からの光が絵文字「諸修行」を照らす

 密教に比較して法華経が古来より人々に受容されやすいのは、教理が「万人成仏」であることに加え、わかりやすい説話や日常的な出来事を通して教えを説いたからである。そしてその経典の意図するところを的確に表現したのが経意絵であった。

 経意絵の歴史は古く、中国では敦煌石窟寺院の壁画に始まり、日本では法隆寺金堂小壁の山中羅漢図もその一つと見なすことができる。写経が隆盛期を迎える平安時代後期には経巻見返し・表紙にほとんどの場合、経意絵が描かれ、図柄も固定化したものが選ばれるようになった。

 紺紙金字経は見返し絵に金銀泥を用いたものが多く、百済寺経に代表されるように12世紀後半には図柄が類型化され、経典で説いている説話や比喩を解説したもの、つまり絵解きが主題となっている。従って、絵が経内容を忠実に再現しており、文盲の者でも絵から経を理解することが出来るのである。

 一方、装飾経の見返し絵は経内容をそのまま表現しているのではなく、経内容を十分に理解した上で、経意を観念的・象徴的に表現している。また見返し絵に登場する人々は日常の貴族社会を生きる彼等そのものであり、それは彼等の日常生活が法華経の中にあったとも言えるし、或いは法華経世界で生きたいという願望を表現しているとも言える。

 平家納経に代表される装飾経からも明白なように、この時代の法華経美術は貴族主導型の美術であり、そこに展開される美的宗教的世界は貴族社会が追求した世界であることに特徴がある。

 

以上の内容は下記のホームページより参考・編集されておりました。

厳島神社 http://www1.odn.ne.jp/~vivace/itsukushima.HP/itsukushimatop.htm

環境イーハトーブの会http://kankyo-iihatobu.la.coocan.jp/index.html

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