『ヒカルの碁』(ひかるのご)は、原作:ほったゆみ、漫画:小畑健、監修:日本棋院所属の女流棋士・梅沢由香里による日本の漫画、及びそれを原作としたテレビアニメ、小説、コンピューターゲームなど。『週刊少年ジャンプ』(集英社)にて1998年12月から2003年7月まで連載された。
本作は日本棋院が全面バックアップをしており、作中にも棋院内部や関連施設、イベントなどが登場している。連載開始時に「世界初」と銘打たれるほど囲碁漫画は珍しいジャンルだった。囲碁漫画は地味になりがちなこと、また動きが碁石を置くだけ等で単調になりがちなことから、青年誌を含めても皆無に近く少年誌での連載はこれが初めてだった。結果的に作品が成功したため、棋院自身も『ヒカルの碁』にちなんだイベントを数多く行った。
棋界の構造についても概ね現実に対して忠実に描かれているが、解りやすさ、描きやすさを重視して改変が加えられている設定も存在する。コミが連載を通して5目半に統一されていること、日本・韓国など各国の棋界に自国籍の棋士しか所属していないことなどがその一例。作中に描かれる対局はほぼ全て実在の棋戦の棋譜を元にしており、第22期名人戦リーグや本因坊算砂の三コウ、本因坊秀策の耳赤の一局などが作中で登場している。
小畑 健(おばた たけし、1969年2月11日- )は、日本の漫画家、イラストレーター。新潟県新潟市出身。血液型はAB型。
1985年、「500光年の神話」で手塚賞準入選。高校2年時(1986年)に投稿し佳作入賞した『CYBORGじいちゃんG』で、1989年に連載デビュー(当時は土方茂名義)。その後は主に原作者と組んで活動している。代表作に『ヒカルの碁』『DEATH NOTE』など。『ヒカルの碁』で2000年に第45回小学館漫画賞、2003年に第7回手塚治虫文化賞新生賞受賞。
1998年ごろには漫画『ヒカルの碁』の影響で若年層にも囲碁ブームが生まれた。
囲碁の発祥は中国と考えられ、少なくとも2000年以上前から東アジアを中心に親しまれてきた。そうした文化・歴史のなかで爛柯(らんか)をはじめとした様々な別称を持つ。日本でも平安時代から広く親しまれ、枕草子や源氏物語といった古典作品にも数多く登場する。戦国期には武将のたしなみでもあり、庶民にも広く普及した。江戸時代には家元四家を中心としたプロ組織もでき、興隆の時期を迎えた。明治以降も引き続き広く親しまれ、近年ではインターネットを経由して対戦するネット碁も盛んである。日本では古くから親しまれ、駄目、布石、捨て石、定石など、数多くの囲碁用語は、そのまま日本語の慣用句としても定着している。
歴史
実際の起源ははっきりとは判っていない。しかし、囲碁の起源は中国で占星術の一法が変化・洗練されて今の形となったと言われている。三国時代の孫策とその部下(一説に呂範)が打ったとされる棋譜が現在に残されている。その後5世紀には朝鮮へ、7世紀ごろに日本に伝わったとされる。その頃から日本の貴族を中心に広く遊ばれ正倉院には碁盤と碁石が収められている。清少納言や紫式部も碁をよく打ったとされ、枕草子や源氏物語中にも囲碁と思われるものが登場する。
室町時代末期からは碁打ちが公家や武将に招かれるなどの専業化も進むとともに、それまでの事前置石制から自由布石への移行も起こった。戦国時代には戦国武将たちに大いに好まれ、織田信長に日海(本因坊算砂)が名人の称号を許されたと言われる。江戸時代には幕府から家禄を受ける家元制度が成立し、囲碁の技術が飛躍的に向上するとともに、将軍御目見えによる御城碁が行われたり、碁会所が生まれるなど庶民の娯楽としても定着した。
本因坊(ほんいんぼう)江戸時代、安井家・井上家・林家と並ぶ囲碁の家元四家のうちの一つ。昭和になって作成された、囲碁の棋戦の一つである本因坊戦に優勝した棋士に贈られるタイトル。
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑に仕えた日海(一世本因坊算砂)を開祖とする家系。「本因坊」の名は、算砂が住職を務めた寂光寺の塔頭の一つに由来する。「本因坊」はもとは上方風に「ほんにんぼう」と読んだが、囲碁の普及に伴って「ほんいんぼう」と読まれるようになった。
以降5人の名人を含め多くの名棋士を輩出し、江戸期を通じて囲碁四家元、将棋方三家の中で絶えず筆頭の地位にあった。道策・丈和・秀和・秀策・秀栄などは、中でも高名である。明治以後にもその権威は受け継がれるが、昭和に入り二十一世本因坊秀哉がその名跡を譲渡、実力制に移行することとなった。
本因坊家の外家としては、水谷家(水谷琢元、水谷琢順、跡目琢廉、跡目順策、四谷)がある。
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