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吉備真備像(倉敷市真備支所)

吉備 真備(きび の まきび、持統天皇9年(695年) - 宝亀6年10月2日(775年11月3日))は、日本の奈良時代の学者、政治家(公卿)。正二位・勲二等・右大臣。

 備中国下道郡(後の岡山県吉備郡真備町、現在の倉敷市真備町)出身の父は右衛士少尉下道圀勝(しもつみちのくにかつ)、母は楊貴(八木)氏(大和国(後の奈良県)の豪族)。下道氏は吉備地方で有力な地方豪族吉備氏の一族。

 716(霊亀2)年8.20、22歳のとき、第8次遣唐使の留学生に任命される。留学生には他に阿倍仲麻呂、留学僧には玄昉(げんぼう)らがいた。
 717(霊亀3)年3月、遣唐使船出航。押使多治比県守、大使大伴山守、副使藤原宇合。真備は玄昉(げんぼう)と共に18年間唐に留まることになる。
 732(天平4)年8.17、第9次遣唐使任命される。多治比広成、大使。中臣名代、副使。翌年4月進発。真備・玄昉(げんぼう)らを迎えることを目的の一つとする。
 735(天平7)年3.25、遣唐大使多治比広成・玄昉(げんぼう)らと共に帰国拝朝。同年4.26、唐礼130巻・暦書・音階調律器・武器各種を献上する。この頃正六位下に昇叙され大学助となる。以後、玄昉(げんぼう)と共に聖武天皇・光明皇后の寵愛を得、急速に昇進を重ねた。
 740(天平12)年8.29、大宰少弐藤原広嗣が上表文にて時政を批判。玄昉(げんぼう)・下道真備を除くことを主張。この時右衛士督とある。同年10月、関東行幸に従駕。11.14、鈴鹿郡赤坂頓宮に至り、供奉者として正五位下に叙位される。
 741(天平13)年7.3、東宮学士に任命され、皇太子阿倍内親王に典籍を講説する。
 743(天平15)年5.5、内裏の宴で皇太子、五節を舞う。天皇は詔で真備の冠を二階上げることを命ずる。この日、従四位下に昇進。同年6.30、春宮大夫(兼皇太子学士)。この年、男子泉が生まれる。母は不詳。

 747(天平19)年3.11、春宮大夫を解任される。後任の石川年足は仲麻呂に近い人物と見られ、藤原仲麻呂による真備排除の意図が実現されたか。同年3.16、大養徳国を改め大倭国に戻す。一説に大養徳国の名称の提案者は真備で、この名称復帰を真備の失墜と関連付ける説がある(野村忠夫)。同年11.4、右京大夫。
 749(天平勝宝1)年7.2、阿倍内親王即位(孝謙天皇)。この日従四位上に昇叙される。
 750(天平勝宝2)年1.10、筑前守に左降される。直後、さらに肥前守に転任。広嗣の怨霊を鎮めるための左遷ともいうが、孝謙が私淑していた真備の勢力伸長を恐れた藤原仲麻呂が真備を天皇から遠ざけるための計略で、むしろ広嗣の怨霊はそのための口実であろうとする説もある。なお『今昔物語』本朝仏法部巻十一によれば、陰陽道を良くした真備はその術を以て我が身を固め広嗣の霊を調伏したという。
 766(天平神護2)年1.8、中納言。同年3.12、大納言藤原真楯の薨去に伴い、大納言に昇進。同年5.4、官司から不当な処置を受けている者や官司から誤った判断を下された者の救済措置として、二柱を立てて人々に申訴させるよう奏上する。同年10.20、道鏡の法王就任に伴い右大臣に昇進。

 775(宝亀6)年10.2、薨ず(81歳。続紀に83歳とあるのは誤りか)。続紀に異例に長い薨伝があり、軍略・建築・儒教の知識などを称揚されている。著書「私教類聚」「刪定律令」等を残したともある。(大伴家持の世界より) 

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明治33年建立された<吉備公館址>という自然石

江談抄』や『吉備大臣入唐絵巻』などによれば、真備は、殺害を企てた唐人によって、鬼が棲むという楼に幽閉されたが、その鬼というのが真備とともに遣唐使として入唐した阿倍仲麻呂の霊(生霊)であったため、難なく救われた。また、難解な「野馬台の詩」の解読や、囲碁の勝負などを課せられたが、これも阿倍仲麻呂の霊の援助により解決した。唐人は挙句の果てには食事を断って真備を殺そうとするが、真備が双六の道具によって日月を封じたため、驚いた唐人は真備を釈放した。

日本における囲碁の開祖
  吉備公が在唐中唐の囲碁名人と大局し、碁石を飲み込んで勝ったと言う説話があります。碁石をはきださそう、薬を飲まそうとしたのですが薬をうまく吐き出しごまかしたというおもしろい話も残っているようです。吉備真備公が、日本における囲碁の開祖として伝えられているのです。

《今昔物語集》は僧玄をとり殺した藤原広嗣の霊を真備が陰陽道の術をもって鎮圧したとし,《刃辛(ほき)抄》は,陰陽書《刃辛内伝》を請来したのを真備とし,彼を日本の陰陽道の祖とする。

 中世の兵法書などは,張良が所持した《六簸・三略》の兵法を請来したのを真備とし,日本の兵法の祖とする。野馬台の詩は蜘蛛(くも)のひく糸によって解読したと伝えるが,中世の寺社などではこの野馬詩を重宝し,多くの写本が作られた。 

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近鉄・JR「奈良」からバスで「高畑」下車すぐ。
  徒歩だと近鉄「奈良」から約20~30分。奈良教育大学の敷地内にあります。

 亡くなった地や墓所がどこなのかは不明であるが、奈良市内にある奈良教育大学の構内には真備の墓と伝えられる『吉備塚(吉備塚古墳)』がある。(ウィキペディアより)

 吉備塚古墳は、春日大社の南約1km、奈良市高畑町奈良教育大学構内の北辺に位置する。昔から吉備真備の墓と伝承され、現状はササに覆われ、クヌギの大木がある。昭和61年に銅鏡が表採されたが、他に遺物は知られておらず、測量は行われているものの、調査は行われていなかった。

吉備真備  http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/kibimaki.htm

倉敷観光 http://k-brand.city.kurashiki.okayama.jp/kankou/mabi/?itemid=5

吉備塚古墳 http://homepage2.nifty.com/mononoke-kofun-room/HP/kibiduka.htm

奈良教育大学-現地説明会資料 http://www.gensetsu.com/04kibizuka/doc1.htm

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