遣唐使船を再現した船が完成。進水式典が行われた
中国江蘇省張家港で2010年3月31日、鈴木玲子撮影
【張家港(中国江蘇省)鈴木玲子】5月に開幕する中国・上海万博にあわせ、遣唐使船再現プロジェクトとして江蘇省張家港で建造されていた再現船が完成、31日、進水式典が行われた。
角川文化振興財団が企画した。遣唐使船は7~9世紀、中国との間を往来し、当時の最先端技術や文化を日本に持ち帰った。
再現船は全長約30メートル、164トン。手こぎの帆船だが、自走できるようエンジンが付いている。麻布と竹製の帆を使うなど史料を基に忠実に再現されており、進水すると、見守っていた造船関係者らから歓声が上がった。
大型船で日本に運び、5月8日に大阪港を出港。瀬戸内海を航海し、広島県呉、長崎県五島列島などを経て、6月12日の万博のジャパンデーまでに上海に到着する予定。東シナ海は航行の危険性などを考慮し大型船で運ぶ。
式典で角川歴彦・同財団理事長は「古(いにしえ)の技術と最新の学術研究の融合により実現できた。万博の盛り上げに貢献したい」と話した。(毎日新聞より)
遣唐使の航路
遣唐使船は、大阪住吉の住吉大社で海上安全の祈願を行い、海の神の「住吉大神」を船の舳先に祀り、住吉津(大阪市住吉区)から出発し、住吉の細江(現・細江川。通称・細井川。細井川駅)から大阪湾に出、難波津(大阪市中央区)に立ち寄り、瀬戸内海を経て那の津(福岡県福岡市)に至る。その後は、以下のルートを取ったと推定されている。
1.630年~665年の航路…北路
- 北九州(対馬を経由する場合もある)より朝鮮半島西海岸沿いを経て、遼東半島南海岸から山東半島の登州へ至るルート。半島情勢の変化により使用できなくなる。
2.702年~752年の航路…南島路
- 薩摩の坊津(鹿児島県南さつま市)より出帆し、南西諸島経由して東シナ海を横断するルート。東シナ海において黒潮で北に流される分を考慮し、一度南進している。その存在が証明できないとの研究もある。
3.773年~838年の航路…南路
。五島列島から東シナ海を横断するルート。日本近海で対馬海流を横断して西進する。
遣唐使船の航路としては、「北路」「南島路」「南路」の3種類があるとされます。
8世紀後半から最終的に選ばれたのが、五島列島を経由する「南路」です。
第1回の遣唐使の派遣は630年、大使は犬上御田鍬。ちなみにこの大使は、614年の遣隋使の大使でもある。ただこの時点では、実態としては従来の遣隋使の続きと考えて良いように思える。
その後、第2回の遣唐使では、往路に第2船が薩摩近海で遭難して120人中生存者5人という悲劇に見舞われている。これが、後に増えてくる遣唐使の遭難の最初の例である。
その後、654、659、665、667、669年に遣唐使は送られているが、この時期の遣唐使に関して大きなトピックは存在しないので詳述はしないことにする。この河内鯨を大使とする669年の遣唐使を最後に、702年まで遣唐使の派遣は途絶えることになる。
遣唐使の始まり。(犬上御田鍬)
第7次遣唐使船(粟田真人・山上憶良)帰朝の際,玉之浦へ漂着。
第14次遣唐使船4隻,渡唐の途中五島に寄泊,順風を得ず引き返す。
第14次遣唐使船渡唐に成功。
第14次遣唐使船帰国の折り,第三船が橘浦(玉之浦湾)に帰着。
第16次遣唐使船4隻,久賀島田之浦に寄泊して渡唐,最澄(38歳),空海(31歳)ら随行。
空海帰国の途中大宝に上陸,大宝寺を真言宗に改宗。福江明星院に参篭して称号を名付けたと伝えられる。
第17次遣唐使船,博多出港後嵐にあい中止。
前年大破した第3船を除いて,第17次遣唐使船3隻みみらく(三井楽)を目指して博多を出港したが,逆風のため大損害を受け中止。
第17次遣唐使船,宇久島に寄りその日に出港,唐へ向かう。3度目にして渡唐に成功。「入唐求法巡礼行記」の著者円仁随行。
新羅船に便乗して円仁五島に漂着帰国す。
真如法親王(平城天皇の皇子)外僧60人便乗の唐船三井楽を発つ。
遣唐使が廃止される。
(五島市観光協会より)
この辺りまでの遣唐使を前期、以後を後期として区別する見解がある。
この間の大きなトピックとして、663年の白村江の戦いが挙げられる。ここまで日本は、親百済政策を採っていたと考えられるが、この数年前に百済は滅亡、更に668年には高句麗も滅亡してしまう。ここまでの日本は懸命に対中対等外交を行おうとしていたと考えられるが、この白村江の戦いで唐の力を見せつけられてしまい、この後はどうやら対等外交を放棄したように見られる。669年に派遣された遣唐使は、翌年唐の高宗と謁見して「高麗を平ぐるを賀した」とされているが、これは実質的には日本の降伏表明だったと考えられる。
ここまでは政治的な色合いが強かった遣唐使だったが、以後はどちらかと言えば唐の先進文化を受容していくのが主な目的となっているように見える。また、この頃まで主として2隻で構成されていた遣唐使船は、8世紀に入って復活した後は倍の4隻で構成されるのが通常となっていく。また、新羅との関係悪化により、遣唐使の渡海ルートも北路から南島路・南路へと変化を遂げている。これらの詳細については後述することにして、まずは引き続き遣唐使の派遣過程を追っていこう。
(遣唐使~その歴史的経緯と役割~より)
派遣者一覧:
遣唐使一行(『延喜式』大蔵省式による) 大使・副使・判官・録事・知乗船事・訳語生・請益生・主神・医師・陰陽師・絵師・史生・射手・船師・音声長 新羅、奄美訳語生・卜部・留学生・学問僧・傔従・雑使・音声生・玉生・鍛生・鋳生・細工生・船匠・柂師・傔人 挟杪・水手長・水手など
唐では874年頃から黄巣の乱が起きた。黄巣は、洛陽・長安を陥落させ、斉(880年 - 884年)を成立させた。斉は短期間で倒れたが、唐は弱体化して首都・長安周辺のみを治める地方政権へと凋落した。
このため遣唐使は、894年(寛平6)の派遣が菅原道真の建議により中止された。907年(延喜7)には唐が滅亡し、遣唐使は再開されないままその歴史に幕を下ろした。(ウィキペディアより)
艱難辛苦の渡航・遣唐使 http://www17.ocn.ne.jp/~mist/j-his/j-h9.htm
天平外交史年表 http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/gaikou.html