RRR

「殿様の駕籠に何者か分からないが、数人が刀を抜いて切りかかった」

などと記された「骨董録」

 幕末の大老・井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」で、居合わせた中間(ちゅうげん)(奉公人)の証言とされる記録が、広島県立歴史博物館(福山市)で見つかった。

 故郷の安芸に帰る途中に役人に語ったもので、襲撃時の慌てた状況が読み取れる。

 記述があったのは、福山藩の儒学者・菅茶山(かんちゃざん)(1748~1827)の弟子、門田朴斎の五男が、「変」に関する伝聞や風説などを集めた「骨董(こっとう)録」(縦22センチ、横15・2センチ、100ページ)。茶山の子孫が館へ寄贈した資料約1万点の中にあった。

 中間は事件の朝、登城する約60人の行列中、駕籠(かご)の後方で馬を引いていた。

    GRWげ

          日本・大名駕籠(ウィキぺディアより)

 <殿様御駕籠へ誰に候哉、刀抜連切て掛り候者数人有之、其勢之烈しく怖しき事言んかたなし>(殿様の駕籠に何者か分からないが、数人が刀を抜いて切りかかった。その勢いの激しさと言ったら、恐ろしくて言葉もない)

 〈其内に御駕籠の内か外か不存候へ共、大なる声にて一声叫び候声ハ耳本へ響て聞へ候、御供方ハ前後へ颯と逃散り、抜合候士も無之様に者相見候へ〉(そのうち駕籠の内か外か分からないが、大きな声が一声聞こえると、警護の武士は前後に逃げ散り、応戦する者はいないようだった)

 中間は恐ろしくなって馬を引いて井伊邸に戻った。

 10月には映画「桜田門外ノ変」が公開予定。時代考証を担当した西脇康・早大講師(日本近世史)は「井伊の家臣は口を閉ざした部分が多く、これだけの証言は残っていない。突然襲われて慌てふためいた行列の様子が分かる」と話す。 (読売新聞より)

SDS

外桜田門と井伊藩邸の距離は600m。

桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)は、安政7年3月3日(1860年3月24日)、江戸城桜田門外(東京都千代田区)にて水戸藩の浪士らが大老・井伊直弼の行列を襲撃し暗殺した事件。

 安政5年(1858年)に大老へ就任した井伊直弼は将軍継嗣問題における南紀派一橋派の争いについては南紀派の推す徳川慶福を将軍の世子として決着させ、もう一つの懸案である条約勅許獲得問題は孝明天皇の勅許がないまま安政の五ヶ国条約に調印した。これに対して倒閣運動を起こした一橋派を安政の大獄により弾圧する姿勢に反対派の怒りは頂点に達していた。

 水戸藩は大獄により前藩主である徳川斉昭永蟄居の処分を受け、更に戊午の密勅に関して朝廷への勅書返還の騒動で揺れていた。返還阻止のために長岡で街道を封鎖した激派の藩士たちは失敗により脱藩して運動の中心を江戸へ移した。以前より攘夷派の高橋多一郎金子孫二郎などの水戸藩士と薩摩藩の在府組である有村次左衛門は、薩摩の率兵上京による義軍及び孝明天皇の勅書をもっての京都における義挙実行を計画していた。

SSSS

桜田門外の変の想像図

 しかし薩摩藩は異例の対応で攘夷派を強引に沈静化させ、ここに率兵上京は不可能となり京都における攘夷派の蜂起は破綻する。しかし「斬奸趣意書」にあるように幕政是正のためには井伊直弼排除が必要不可欠とする水戸浪士たちは関東における義挙を実行する方針を固めていた。薩摩との合流のため高橋多一郎、金子孫二郎らは京へ上り、関東では関鉄之介率いる実行部隊が大老襲撃を断行するとして分かれ、関東組へは薩摩在府組の有村が一人加勢した。

 当日は季節外れの雪で視界は悪く、護衛の供侍たちは雨合羽を羽織り、刀の柄に袋をかけていたので、襲撃側には有利な状況だった。江戸幕府が開かれて以来、幕府には江戸市中で大名駕籠を襲うなどという発想そのものがなく、彦根藩側の油断を誘った。襲撃者たちは『武鑑』を手にして大名駕籠見物を装い、直弼の駕籠を待っていた。

 駕籠が近づくと、まず前衛を任された森五六郎が駕籠訴を装って行列の供頭に近づき、取り押さえにきた日下部三郎右衛門をやにわに斬り捨てた。こうして護衛の注意を前方に引きつけておいたうえで、黒澤忠三郎(関鉄之介という説あり)が合図のピストルを駕籠にめがけて発射し、本隊による駕籠への襲撃が開始された。

 発射された弾丸によって直弼は腰部から太腿にかけて銃創を負い、動けなくなってしまった。襲撃に驚いた駕籠かきは遁走し、数名の供侍たちが駕籠を動かそうと試みたものの斬り付けられ、駕籠は雪の上に放置される。彦根藩士たちは柄袋が邪魔して咄嗟に抜刀できなかったため、鞘で抵抗したり、素手で刀を掴んで指を切り落とされるなど不利な形勢だったが、二刀流の使い手として藩外にも知られていた河西忠左衛門だけは冷静に合羽を脱ぎ捨てて柄袋を外し、襷をかけて刀を抜き、駕籠脇を守って稲田重蔵を倒すなど襲撃者たちをてこずらせた。しかし、一人では抵抗しきれず、遂に斬り伏せられる(河西の刃こぼれした刀は彦根城博物館に保存されている)。

 襲撃を聞いた彦根藩邸からは直ちに人数が送られたが後の祭りで、やむなく死傷者や駕籠、さらには鮮血にまみれ多くの指や耳たぶが落ちた雪まで回収した。直弼の首は遠藤邸に置かれていたが、所在をつきとめた彦根藩側が、闘死した藩士のうち年齢と体格が直弼に似た加田九郎太の首と偽ってもらい受け、藩邸で典医により胴体と縫い合わされた。 

FさSW

井伊直弼(彦根城博物館所蔵)

 直弼以外に8人が死亡(即死者4人、後に死亡した者4人)し、13人が負傷した。死亡者の家には跡目相続が認められたが、直弼の護衛に失敗した生存者に対しては、2年後の1862年(文久2年)に処分が下された。草刈鍬五郎など重傷者は減知のうえ、藩領だった下野の佐野に流され揚屋に幽閉される。軽傷者は全員切腹が命じられ無疵の者は士分から駕篭かきにいたるまで全員が斬首、家名断絶となった。処分は本人のみならず親族に及び、江戸定府の家臣を国許が抑制することとなった。

 桜田門外の変で敵対した水戸と彦根が和解して親善都市提携を結んだ時期は、事件発生から110年後の1970年であった。水戸からは偕楽園の梅、彦根からは堀の白鳥がそれぞれに送られた。水戸と彦根を和解させた都市は敦賀だが、敦賀は水戸天狗党が悉く殺された土地である。水戸と敦賀が、天狗党の縁で姉妹都市提携を結んだ時期は1964年だった。(ウィキペディアより)

「桜田門外ノ変」映画化支援の会 http://mitoppo.jp/index.html

映画「桜田門外ノ変」公式サイト http://www.sakuradamon.com/ (10月16日公開)

arrow
arrow
    全站熱搜
    創作者介紹
    創作者 Mina 的頭像
    Mina

    L'art est le plus beau des mensonges

    Mina 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()