名古屋市熱田区の熱田神宮で2010年6月5日、兵藤公治撮影
初夏の訪れを告げる熱田神宮(名古屋市熱田区)の例祭「熱田まつり」が5日行われ、約20万人の参拝者でにぎわった。
夕方、1年間の無病息災を祈って、ちょうちん365個を半球状に組んだ「献灯まきわら」5基に明かりがともされると、周囲は幻想的な雰囲気に包まれた。この後、近くの神宮公園で花火約1000発が打ち上げられ、家族連れらが夜空の大輪に見入っていた。【稲垣衆史】(毎日新聞より)
熱田の献灯まきわら、2007年6月5日撮影(名古屋圏より)
神宮の恒例祭典・特殊神事のうち、最も重要かつ荘厳な祭典が例祭です。この祭典では、宮司が祝詞を奏上し、天皇陛下勅使による御幣物(ごへいもつ)の奉納、御祭文(ごさいもん)の奏上があり、皇室の弥栄・国の平安が祈念されます。
例祭は一般に、「熱田まつり」「尚武祭(しょうぶさい)」とも称され、献灯まきわら・花火・武道・献茶・献花等の数々の行事が催され、約25万人もの市民が参拝する親しみある祭りでもあります。
地元の人々は、毎年この祭りから浴衣を着るならわしがあり、手にうちわを持ち、露店をのぞきながらのまことに季節感あふれるお祭りです。(熱田神宮より)
熱田まつりの花火、2010年6月6日撮影(すずひろさんより)
今年の花火は2000発くらいだそうですね^^
「例祭」という名称が使われ出したのは近世のことで、それ以前には「大祭(おおまつり)」「御祭(おんまつり)」などと呼んだり、社名に祭をつけて「春日祭」「石清水祭」などと呼んだりしていた。近世には、各地の名所図会などに「○○神社例祭○月○日」と記載されているのが見られ、その神社を代表する重要な祭を「例祭」と呼ぶことが定着していたことがわかる。
明治の神社制度においては、例祭は祈年祭・新嘗祭などとともに「大祭(たいさい)」に定められ、官国幣社・府県社・郷社および一部の村社(神饌幣帛料供進指定神社)には勅使あるいは幣帛供進使が参向して国・皇室から神饌幣帛料が供進された。
第二次大戦以降は、国からの幣帛供進制度は廃止されたが、勅祭社については例祭に際し勅使が参向する。それ以外の神社では、公的な幣帛供進制度に代わって神社本庁から「本庁幣」として献幣が行われている(ただし神社本庁被包括の神社に限る)。(ウィキペディアより)
儀式が始まった~(dionさんより)
例祭は祭祀の分類の中で「大祭(たいさい)」に分類されることから、例祭のことを例大祭(れいたいさい)と呼ぶことがある。ただし、これは俗称であり、正式なものではない(例祭の名称として「○○神社例大祭」としていることはある)。 正式には、大祭式例祭(たいさいしきれいさい)とする。
本来の「例祭」以外の祭祀についても、祭の名称に「例祭」を含んでいる場合(例えば「春季例祭」)があるが、一つの神社について例祭は一つだけである。(ウィキペディアより)
【熱田神宮】
祭神は熱田大神(あつたのおおかみ)であり、三種の神器の一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ。天叢雲剣)を神体としている。同項に詳しいが、剣は壇ノ浦の戦いで遺失したとも神宮に保管されたままとも言われている。
相殿に天照大神(あまてらすおおみかみ)、素盞嗚尊(すさのおのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、宮簀媛命(みやすひめのみこと)、建稲種命(たけいなだねのみこと)を祀る。
献灯まきわらの準備中(rikoさんより)
永禄3年(1560年)5月19日、織田信長とその手勢が桶狭間の戦いに赴く際に立ち寄り、戦勝祈願を行った。合戦後、信長が勝利した御礼として築いたとされる塀(信長塀)の一部が現存する。
浅沓(あさぐつ)は公家の履物の一種でした。(rikoさんより)
平安時代の男性貴族の一般的な履物でした。内側には、絹地の布が張られ、足の甲にあたる部分にはクッションが付いているのが特徴です。“かかと”からつま先に地面に着くように足を運ぶと歩きやすいですよ。(いつきのみや歴史体験館より)
★クッション:cushion。羽毛・スポンジなど弾力性のある物を入れ、刺繍(ししゅう)・レースなどで飾ったいす用の布団。
熱田神宮例祭(熱田まつり・尚武祭)
アクセス:JR東海道本線熱田駅から徒歩8分
熱田神宮 http://www.atsutajingu.or.jp/jingu/shinto/reisai.html
熱田まつり(ひよこさん)http://blogs.yahoo.co.jp/piyo16782003/61810271.html
エヴァのお部屋 http://blogs.yahoo.co.jp/dion_read/33270961.html
いつきのみや歴史体験館 http://www2.mint.or.jp/~itukino/index.html
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